トワル・ド・ジュイの歴史

Toile de Jouy

トワル・ド・ジュイとは綿布に田園生活やお花見の様子、また動物といった柄が描かれた布のことを指し、一部の人々の間では世界初の漫画とも呼ばれています。この布は生成りの布に赤、青、緑、ピンク、グレーなどの色を単色で使って絵を描くのが特徴です。又逆に、染めた布地に白を使って絵を描くこともあります。

他にもIndiennes (アンディエン)という呼び方もあり、それは15世紀から16世紀頃に始まったインドとの最初の貿易に由来します。賑やかな色が使われたインドの綿布は当時としては非常に珍しく、貴族やブルジョア階級の人々のあいだで流行となりました。しかしそれによってフランスメーカーの綿布や絹布の生産が減ってしまったため、メーカー側が当時の王様であったルイ14世に要望を出し、1686年には絵が描かれた海外製の布の販売を禁止しました。この禁止令は1759年にルイ15世が撤廃するまで続きました。

Christophe Oberkampf に対する画像結果.サイズ: 177 x 170。ソース: www.france-pittoresque.com
オベルカンフ 氏

その翌年の1760年には22歳のドイツ人クリストフ-フィリップ・オベルカンフによってアンディエンの綿布の工場がジュイ村に開設されます。彼は元々染め物の技術を学ぶためにパリで修行を行っていましたが、彼の父がアンディエンヌの技術を良く知っていたこともあり禁止令の撤廃をチャンスととらえ工場設立に踏み切りました。

彼がジュイ村を選んだのはビエーヴル川という布を洗うのに適した川が流れていること、そして洗った綿布を干すための広い牧草地があるからです。

ラ・ ビエーヴル川

またヴェルサイユ宮殿に近いため王様を始め、廷臣や貴族そしてブルジョアの人々が近くに住んでいたことも理由の一つといえます。

工場は大成功をおさめ従業員が千人を超えていた1783年にマリーアントワネットの夫である国王ルイ16世の工場となり、オベルカンフは貴族の称号を与えられました。

ジャン・バティスト・
ヒュエト 氏

またオベルカンフは有名なジャン・バティスト・ヒュエトの様な才能ある画家と交流があり、彼らにデザインをお願いすることもあり、

オベルカンフの工場は18世紀における最も重要なアンディエン工場の一つでした。

当時のデザインは現在トワル・ド・ジュイと呼ばれているものの他に、多彩色を使った豪華なものも製造され上流階級の間で高い評判を受けていました。

絵の説明 : 18世紀のジュイ工場(左と中) – オべルカンフ家族(右)

初期の頃は木版に柄を彫って手で綿布に刷り上げていましたが、1770年頃からは木版の代わりに銅でできた円柱の版画板が使われるようになり、刷る作業も機械化が進みました。

同じ頃アルザス地方のミュルーズなどでもトワル・ド・ジュイを製造していました。現在ではジュイにもミュルーズにも工場は存在していませんが、繊維の美術館が作られ当時の様子が再現されています。

私たちフランス人にとっては、トワル・ド・ジュイというとおばあちゃんの寝室が思い出されます。トワル・ド・ジュイは、椅子や壁紙、またはカーテンやベッドカバーとして使われている事が多いです。洋服の場合はリバイバルとして時代を超えて流行が巡ることが多く、エレガントで柔らかく、伝統的な雰囲気を持つこのデザインはフランス人も大好きです。

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